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「わたしやア――」
「この人はちっと眠むがってるでな……」
彼は、医師検定試験といふものが実際は医専を出ることなんかよりはるかにむつかしいものだと知つてはいたが、しかし、正規な教室で得るところのものは難易にかゝはらない何か別の正統さといつたやうなもの、より科学的な、――つまり、医者らしさだといふことを、心のどこかで信じていた。それが、房一には欠けている、といふ風に思はれた。
「ねえ。――はやく。――患者ですわ」
患者は満足してかへつて行つた。だが、房一は患者以上に満足していた。おれの云ひ方はあれでよかつたかな。もつと噛んでふくめるやうに話して聞かせるんだつたかなと、たつた今自分が云つたり、したことを、もう一度目の前に思ひ描きながら、房一は永い間廻転椅子の中に身をうづめていた。
「ふうん」
「大きいかね」
「徳さん。追鮎は君のといつしよに活かしといてもらはうか――どつこいしよ」
その時、彼等は近くに坐つている房一に気づいた。話に出ている鍵屋の分家とは、まさに房一の借りている家のことだつたし、その所有者は神原喜作にちがひなかつたから。
小谷が対岸から流れを指しながら叫んでいた。房一の竿の前を渡渉とせふするので承諾を求めたのだ。
この家は上手にある鍵屋といふ旧家の分家だつたが、或る事情でこの一年ばかりの間空家になつていた。こんな家を何も空家にして置かなくてもよかりさうなものだが、そして最初二三ヶ月の間は本家の鍵屋から留守番に人が来ていたのだが、間もなく手がかゝるためか閉めてしまつた。それと云ふのも鍵屋でさへだゝつ広く黴臭い自分の家を持てあましていたからである。鍵屋にかぎらず、維新前から明治大正にかけてひきつゞいた田舎の旧家はかなりの地主にちがひなかつたが、それは形だけは鬱蒼としているが幹が空洞になつた大樹のやうなものだつた。鍵屋はもとは名代の酒造りだつたが、当主の神原文太耶になつていつの間にか止めてしまつた。その代りでもあるまいが、神原はその当時この附近では珍しかつた法学士といふ肩書のためか、次第に政治に身を入れるやうになつて、今では歴年県会議長をつとめていた。家にはめつたに居ない。それで、昔のまゝに格子造りの鍵屋の表口はいつも半ば閉めたやうにひつそりしていた。その母屋おもやの横手から裏にかけてはもう何の役にも立たない古い倉庫が無暗みと大きな屋根と、あの風雨にたゝかれて黒ずんだ汚点しみのついた白壁とを突立てているきりだつた。
温泉は街道から幾折れかの石段で溪ぎわまで下りて行かなければならなかった。街道もそこまでは乗合自動車がやって来た。溪もそこまでは――というとすこし比較が可笑おかしくなるが――鮎が上って来た。そしてその乗合自動車のやって来る起点は、ちょうどまたこの溪の下流のK川が半町ほどの幅になって流れているこの半島の入口の温泉地なのだった。
その次にふり向いたとき、果はたせるかな、殆ど目の前の対岸から、はつきりと彼の方を向き、ためらひながら何か云ひたげにしているやうな相手の顔を見た。それは徳次の幼友達であり、彼の兄貴株でもあれば大将株でもあつた、そして今は彼なんかには傍へもよりつけないやうに感じられるあの「医師高間房一氏」であつた。